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2020/04/26

バルト3国の旅・ラトビア編⑤ 歴史のお勉強

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「バルト3国の旅」を企画するまで、あまりこの3つの国について知識はなかったです。
ガイドブックを買って隅から隅まで読み、バルト3国に関する本を図書館で借りたり、ネットで買ったり、文化や歴史・民族や伝統についても自分なりに事前学習をしました。
ドイツ騎士団だったり、ハンザ同盟だったり、リヴォニア戦争北方十字軍などのこと。
杉原千畝のドラマもいくつかみたし、リトアニアのシャウレイトラカイ城は行った人のブログをみて「絶対に行く」と決めたし、ツアーのアレンジはみなさんの要望に応えられるように&喜んでもらえるように何度も手直しした・・・それがまた楽しいのよね~💕😃💓

エストニア編・ラトビア編が終わりましたが、明日から「リトアニア編」がスタートします
お時間があれば覗いてください。

≪ラトビアの歴史概要≫

ラトビアの氷河が融けた西暦前9000年、最初の住民がたどり着く。
後に他のバルト語派の部族が定住するようになる。
彼らがラトビア・リトアニアの先祖です。

ラトビアは貿易の要所であり、古代から世界的に重要な交易ルートとして栄え、バイキングからギリシャ人までが広大なダウガヴァ川を渡りました。
12~13世紀にかけてラトビアは領土拡大を狙い、キリスト教を持ち込む十字軍に徐々に侵攻されました。
13世紀にはドイツ騎士団による侵攻を受け、その後も強いドイツの文化の影響を受けながら、リトアニア、ポーランド、スウェーデン、ロシアの支配を受けたのです。

首都リガはハンザ同盟の中核都市で、中世の面影を色濃く残した旧市街は1997年にユネスコ世界遺産に登録。

1918年11月に独立を宣言したが、1920年まで内戦状態が続き1940年には独ソ密約により旧ソ連となりました。
1941年~1945年までナチス・ドイツの占領を経て再びソ連領となる。
その間、1940年~1949年にかけて約8万人のラトビア人がシベリアに流刑され、また多くの国民が難民として国外に亡命しました。
この結果、1939年におよそ73%いたラトビア民族は1989年に52%まで減少。

1990年5月に独立回復を宣言するが、正式に独立したのは旧ソ連崩壊後の1991年8月でした。

独立回復で亡命していたラトビア人が帰国し、若い指導者を中心に新たな国造りに取り組みだしたのです。

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聖ゲルトルード教会
15世紀のゴシック様式のカトリック教会
旧市街からは少し離れています、徒歩15分くらいかな。
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女子がふたり、仲良く歩いています💕
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救世主生誕大聖堂
1883年、ラトビアがロシア帝国統治下にあった時に建築されたロシア正教の教会。

ラトビアのことを知らべていて、ふと思い出したことがあります。
むかぁ~し昔、そのむかし。。。
そう、アタシがロシア語通訳としてデビューしたての頃。
おおー、もう20年以上も前のことですねー。

東京の商社のロシア貿易のお仕事だったのですぅ。
担当者がラトビア出身の方でした。
5ケ国語が堪能な優秀なビジネスマンでした。
彼は「ボクはロシアが大嫌いです」と言ってました。

ロシア側の要望を彼に伝えてもすべて「NO」でした。

ロシア側のリーダーに「NO」と伝えると
ロシア人が「あの、クソッタレ×××ラトビアめ」と放送禁止用語を連発して
怒っていたことがありました。

ラトビアとロシアって仲が悪いのか~と不思議に思ったことがありました。
懐かしい話です。。。

さて、明日はいよいよ、最後の国、リトアニアへ移動です。
続きは「リトアニア編①」でどうぞ。

リガのまとめ動画はこちらです。

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